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心友を偲んで、、、

19歳の頃やってたバンドのドラマーY(久留米高専)が就職活動でバンド活動が出来なくなり、牟田山中学校同窓生の久留米高専生ということで紹介されたのが彼だった。

おぉ!久しぶり!でバンドは始まった。私はギター担当。





最初の出会い。


中学に上がったばかりの遅い春、彼は佐賀の三田川から我が牟田山中学へ転校してきた。

教壇で先生に紹介された後、俺の目の前の席へ。

すぐに仲良くなった。

翌日から毎朝彼の家へ行き一緒に登校するようになった。


2年になるとクラス替えで別れてしまい彼は優等生グループ、俺は落ちこぼれの悪さグループ、、、そのまま疎遠になったので、その時会うのも話すのも5年ぶりくらい、まさか彼がドラムを叩いているなど知りもしなかった。


一浪で高校に入った俺はみんなより一年遅れて卒業した。

彼は高専生で留年してやっと三年生という状態。

ダンパやら街のライブやら、やれるところでいろいろ演った。


高校時代からバイトしていたペンキ屋さん(建築塗装が主だったが西鉄バスの塗装もしていた)に卒業後もそのまま手伝っていた俺と、とあるきっかけ(後述)で高専を退学してしまった彼とはよく遊んだ。


彼はバンド絡みで出会った創業間もないPA屋さん「SET-UP」を手伝うようになり、俺も土日は現場にかり出されるようになる。そしてペンキ屋さんを辞める。(歯科技工士になるべく専門学校の勉強をするという言い訳は用意していた,,,)

PAの現場が終わると当時久留米では珍しかった西洋的居酒屋「くるくる館」で朝まで飲んだ。マスターのハカちゃん(故人)やSugiやAntonと出会ったのもここくるくる館だ。Sとは今でも交流がある。


ペンキ屋とPA屋の比重が変わってきた頃、彼はBSの福利厚生部「久留米音協」のコンサートやイベントのポスター貼りのバイトを仕入れて来た。これがなかなか割の良いバイトで一夜で経費をさっ引いてもひとり2万ちょいになった。ポスター貼り終われば「くるくる館」へ、、、楽しい日々だった。

そういや国政選挙がらみのポスター貼りは破格のバイト代だった。飲みまくった。


久留米音協のOさんからナベプロの話がきたのはそんな生活を一年ほど続けた頃だったか、、、彼は迷うことなくナベプロ(NonStop)の契約社員になった。俺はというと本格的にSET-UPで頑張ろうと決意する。

1980年。

そこからまた彼とは疎遠になる。


1982年、SET-UP廃業で日田のMusic-Cityへ移籍。

その頃福岡の現場で一度顔を合わせたが彼は見るからに業界人になっていたw

俺の事など記憶にないなぁ〜!そんな感じだった。(真意は定かでない)


彼が最初の結婚をしたのがこの頃だったと思う。

何故か結婚式には参加した。

全日空ホテル。盛大な結婚式だったが2年後には別れてしまった。

その頃は離婚理由など知りもしなかったが、俺でも別れてたと思う仕打ち。


俺も日田時代は楽しかった。バブル絶頂期だ。

彼も浮かれた絶好機の芸能界を楽しんでいたようだ。


俺は26歳で結婚して29歳で父親になった。

30歳を過ぎた頃、またバンドをやろうという事になった。

その時彼が連れてきたのがボーカルOくんだった。

演歌のうまいOくんはDTBWBをレパートリーにしていた俺らのバンドにはもってこいの役どころですぐに仲間になった。30年経った今も良き仲間だ。


40歳ちょっと前だったか、、、当時彼が同棲していた相方と結婚すると云いだした。

久留米市内の友人のホテルで多くの仲間が集い楽しく盛大に祝った。

数ヶ月後には別れると云い出し、部屋を出て行くという彼女の荷造りを手伝った。

泣きながら荷をまとめる彼女を見ると俺も泣けてきた。

ダンサーだった彼女は発心コンサートにも出演してもらった事がある。

元気にしているだろうか、、、。


1994 34歳の時11年間お世話になったMUSIC-CITYを退社した俺は久留米で第二のPA人生を始める。

屋号をどうしようか?と悩んでいると彼から「そのままTARZANで良いやんね」と、、、重ねるように今は亡きBEAMさん(故人)も同じように勧めてくれたのですんなり屋号が決まった。

数年間はアダナがそのまま屋号になった事に戸惑っていたが今ではコレで良かったと思っている。


彼は1996年佐賀で開催の「炎の博覧会」の吉野ヶ里会場の舞台監督の仕事で久留米に戻ってきた。

博覧会も終わったその年の年末、会場で知り合ったMCの女性と結婚すると云いだした。

三回目の結婚だ(笑)

ハワイで挙式をあげるという。

彼のお袋さんから「旅費を出すから参加して!」と云われたが、Oくんと共に丁重にお断りした。

我が家から車で数分のところで生活を始めた。そして三回目の結婚でようやくふたりの子供を授かった。

男の子Tと女の子A

しかし、幸せそうに見えた生活も数年後には破局を迎える。

二度も離婚を経験したのに何ら成長しない彼の生き方が好きだ(笑)

「こうなると分かっていても好きになるとよ」

なぜか彼が選ぶ人はB型の女性ばかりだった。

共通の何かがあるのだろうか。


それから間もなくロケで訪れた八丈島で彼は4人目の相方を見つけてきた。

バツイチの彼女は島の女らしく小柄ではあったが強く逞しく芯の通った賢い女性だった。

ふたりは福岡で暮らし始めた。

結婚するのかと思っていたが結局籍は入れなかったようだ。

珍しく10年ほど良い状態が続いたが彼女は東京へ戻ってしまう。

何があったのか書かないが、彼の持病、、、かわいそうな事をしたと思う。

東京へ戻る直前の彼女へ電話した。

悔しい、、、と泣きじゃくっていた声は今でも脳内に残っている。



離縁と同時に久留米に戻ってきた。

父親の借家で同居するという。

元来母親をリスペクトしていた彼は年老いた父を罵った。

事ある毎に聞きたくもない言葉が彼の口から発せられた。

聞いている俺らはとても不快になった。

不快さを共有すべくOくんに同調を求めた。

それがそのまま彼の耳に入るとも知らずにだ。


それから疎遠になった。

Oくんの事も嫌になった。


そんな頃、福岡から深夜帰宅中、大型トラックに正面衝突し重傷を負う。

事故現場に駆けつけた警察官が彼の車を見た瞬間「運転手は即死だな、、、」と諦めたくらいの事故だったらしい。1週間の集中治療を受け数ヶ月後には退院、そしてリハビリ入院生活が始まるのだが、その後奇跡的な復活を遂げて趣味だった宝満登山も始められるようになった。

そんな復活劇を周りは素直に喜んだ。すごいぞ!と。


何度かの宝満山登山で異常な疲れを感じた彼は病院へ行く。

異様な血糖値から糖尿病~膵臓癌が発覚してしまう。


ここからは先回書いたので省略する。






昨日、死に顔を拝みに行ってきた。

お父様が云われるには体重は30kg台まで落ちていたらしい。

夜中トイレに立った時に転んでしまいそのままの状態で早朝発見されたらしい。

そもそも過度なモルヒネの摂取で頭は朦朧としていたのだろう、もしかしたらこれが最期と分かっていたのかもしれない。


知り合ってからあっという間の47年。

たぶん忘れていることが多い気がします。

君が生きていればもっと楽しい想い出話を聞けたかもしれませんね。

君と同じ時代に生まれ育ち、同じ時間を共有出来た事を感謝します。

生まれ変わってもまた出会うだろう事を信じて、、、


伊藤博:1958年(昭和33年)1119日~2019828 60




令和元年829日 丸山幸一






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COMMENT 1

si nogu  2019, 09. 06 [Fri] 06:20

そうだったのですね

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